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2008年9月27日
映画サークル10月号の原稿
一本の映画を鑑賞する時の心構えをスガイビル隣で営業されている蕎麦や一筋
(東屋本店)大将と雑談していた横田、なるほどなのでした。一本の映画は何でも良くて、ストーリーで鑑賞する。そこで満足ならば良いけれど、話が面白くないことだってある。登場人物に限って鑑賞してみる。怖い映画って、登場する人間がおっかない顔をしたからといって映画を見ているこちら側に、ちっとも伝わらず、顔などどうでもいいのさ。風の音、豪雨の様子、画面を走り抜ける足元、犬やカラスの鳴き声、寂れた廃墟や墓、街並みの暗闇。情景だけでも怖さは伝わってくる。そう思わないかい「横」と問いかけられて納得です。強烈な活劇「七人の侍」 における野武士の死闘に怖さを感じたことを思い起こします。 無実の罪で長い年月牢獄で過ごす運命に陥った男を描いた「埋もれた青春」の恐怖は、政治や恋愛、旅する楽しみ、美味しい食事とは無縁のまま、主人公が自殺する結末が用意されたものでした。おおむね人生の浮き沈み体験している自分に比して、もしわが身だとしたならば如何にと思う瞬間を映画はもたらせてくれます。 昨今、何故にか「蟹工船」の話がマスコミで取り上げられます。貧しさに追われ荒海の漁場に出る。北の果ての労働は悲惨なほどに苛酷きわまりない世界を容赦なく伝えた映画と昨今の年収200万円に手が届く、届かないというリアルな部分を「蟹工船」に重ねニート談義へ置き換える風潮を未知の世界の人の生活と捉えるのは無理です。「蟹工船」の場合劣悪な牛馬のごとき中から漁師が立ち上がる様を学ばねばならないのです。究極には軍部に征圧されるけれど、後ろ向きにならず一歩でも前に進もうとするエネルギーを映画から汲み取ることができました。映画は時として現実には起こりえぬ出来事をおとぎ話に仕立ててくれます。1943年生まれの私は11歳の1954年に日本で公開された記録の「ローマの休日」における天衣無縫の無邪気な小さな国の王女とアメリカの新聞記者との愛別離苦人生を20代,30代、40代、50代、今の60代の自分と照らし合わせて10年置き間隔で映画館再上映うあDVD通じて鑑賞し続けている作品のひとつです。街にまぎれこんだ王女と特種を追う新聞記者。相容れぬ境遇の中で人として男と女として映画の登場人物やローマやトレビの泉、大使館などロマンの香りをふりまきながらお互い実らぬ恋を超越した人生何事も思い通りには行かないという事実を突きつけてわが人生に憂いなしの教訓をもたらせてくれました。中西出版から横田の40年に関わる映画人生の本を近く出す運びです。映画サークル広報紙<シネアクト>に収められたエッセイも含めて、映画って一体何なのだろう。その答えは映画を見続ける事に尽きます。編集氏、読者の皆さんに感謝して文責です。◆小林多喜二
「蟹工船」 参考WEBサイト
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