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2007年4月27日

映画二十四の瞳デジタル映像でよみがえる・・・・・

◆札幌映画サークル広報紙5月原稿Web版 松竹大船昭和29年製作「二十四の瞳」がデジタルリマスター版として六月に札幌デイノスシネマで公開予定です。昭和18年8月1日生まれの横田記憶に残る不朽の名作といえます。モノクロ映画です。 私の手元にある日本映画ベスト200の中で二十四の瞳が第8位になっています。①七人の侍②生きる③また逢う日まで④東京物語⑤羅生門⑥青い山脈⑥青い山脈⑦酔いどれ天使⑧二十四の瞳⑨無法松の一生⑩浮雲の順番です
v1149.jpg物語「二十四の瞳」の舞台である香川県小豆島は原作者・<壺井栄>の故郷です。瀬戸内海に浮かぶ島へ赴任してきた女性教師・大石久子役に高峰秀子が体当たり演技です。12人の子供たちの24の瞳を通じて教え子と教師の暖かい交流が描かれます。 91歳になる私の母親は札幌において中島・八条・啓明・山の手養護学校で英語を教え、現在、骨折が因で認知症診断を受けているのですが、中学時代の教え子達の事はしっかりと覚えていて、まさに月日の変遷を乗り越えた師弟のつながりは映画とともに共感をもたらせる紛れも無いドキュメントです。 悠久の天地 自然の中で 何故 人間は愚かな戦争を 始めるのであろうか 何故いじらしい命を 捨てさせるのだろうか 木下恵介監督の言葉を読みつつ、昭和3年から終戦の翌年までにいたる激動の時代を経た島に住む人々に見られる貧しさや家族制度のしがらみ、戦争がもたらせた悲劇うんぬんを母に置き換え、満州生まれの横田は改めて戦死した親父の事。英語教師資格を充分に発揮させ、再婚せずに私を育ててくれた母親に感謝です。映画「二十四の瞳」は戦後に公開され大ヒットし感動の涙を覚えています。 戦後ベビーブームに生まれた私は、亡き祖父母のおかげで満州から引き揚げすることができました。祖父母がいなければ中国残留孤児の人生を歩んでいたはずです。 明治生まれの祖父母は道北の霧たちこめる釧路において地方新聞を発刊していました。半世紀以上前に母は兄とともに東京の大学で学ぶことを勧められ、兄は法政大学、母は昭和女子大学で学んだのですからとてもハイカラな家柄であります。 映画の大石先生は洋服を着用し自転車に乗って颯爽と島の学校に赴任し島の住人からまぶしい存在でした。受け持ちは一年生12人。まさしく二十四の瞳です。始めはかなり戸惑いもありましたが先生の熱意におされ子供たちとの距離は先生の愛情でしこじづつちかづいていきます。 5年の月日を経過して日本全体が軍国主義の世相にまっしぐらとなり子供たちは分校から本校に移り先生も遊覧船の機関士と結婚します。 教え子の男子生徒が前線に招集されるようになり子供たちや家族にまで様々な変貌があらわれはじめ、先生の夫は戦死の報告をうける過酷な時代に突入です。 戦後、私の母親が教職についてそれまで居候していた兄の家から独立し、祖父母が働いている母になりかわり私の面倒をみてくれました。 映画の大石先生も戦死した夫の悲しみを乗り越え分教場で再び教えるようになり昔の教え子の弟や妹に接し涙がとまらず「泣きみそ先生」のあだ名を付けられ、大石先生の復職にあたり自転車を昔の教え子がプレゼントしまたまた涙が止まりませんでした。 我が母の場合1歳でこの世をさった弟を失いその悲しみを胸に秘め1人息子となった私を育てるためひたすら教鞭にいそしみ結果的には私も東京の大学に進学できました。 秋田出身の父方の本家にあたる叔父・叔母の家から上京の条件として東京にいる間は必ず大学に通うことが求められ、分家の子供たちも右へ習えであったのですが、厳格な家風にあわず従兄弟は最長で一年、短い場合は3ヶ月でアパートを借りてみな飛び出してしまいました。 最近のベストセラーの一冊、渡邊淳一「鈍感力」が身についていたのか定かではありませんが日大農獣医学部~芸術学部への転部もあって5年間世話になり、分家の従兄弟達からは奇跡だと語り継がれています。 「二十四の瞳」公開にあたり、我が人生と重ねてみたのは、満州から引き揚げてしばらくの間、父の故郷で居候していた事と風土に横たわる因習が妙にオーバーラップするからです。 映画の舞台、香川県小豆郡内海町立苗羽小学校田ノ浦分校(やたら長い)所番地は昭和45年に廃校となり46年3月に「さよなら式」が行なわれ映画の主人公になった大石先生<高峰秀子>も参加して教え子との対面と24の苗木を植樹して話題をよび校舎はそのまま今でも残存し、リメイク版の映画は朝間監督作品として原作をほぼ忠実に再現、大石先生に田中裕子が扮しました。夫に武田哲也を起用し旧・田ノ浦分校から500メートル離れた敷地に教員住宅、大正時代の商店街、を3億円の費用をかけて作り <二十四の瞳映画村>として観光客に郷愁を呼び壺井栄の業績をたたえる遺品とともに日本人の心を揺さぶります。 映画完成に至るまで島の人が全面的に応援し、オープンセット敷地の無償提供から昔の風景を彷彿させるために電柱の撤去、収穫前のとうもろこし刈り取り協力があり、映画完成の記念興行は島の13箇所に及ぶ公民館、小学校講堂開放し一般公開に先立ち小・中・高の生徒6000人を越えて鑑賞。大人も2万人以上が駆けつけたという記録がのこっており映画すなわち活動屋精神の復活よふたたびの願いで六月公開が待たれます。


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