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2007年10月29日

「 銀 幕 遊 び の 流 れ 旅 」(第47回)

札幌映画サークル11月号広報誌原稿
<赤い靴 はいてた 女の子>
話は前後します。札幌映画サークルの会報掲載のエッセイにちなみ、『スクリーンホット情報』と云う映画番組の司会を10年受け持っていたコンビ長谷川宏和君。HTB開局当初のマスコット、テレビカメラを担いだ熊の「くん太くん」を栗葉貴代子<くりっぱ>さんが天気予報番組・・・でいつも抱えていた思い出から書き始めました。現在のマスコットはOnちゃん。1967年12月1日「映画の日」に創立したHTBは「水曜どうでしょう」という番組が大ヒットして自主制作に力を入れている地方局の冠を持ち、年一本のペースでスペシャルドラマを世に送っています。テレビ局の大量免許時代の到来に併せて、北海道財界は相次いで新放送局の設立に向けて動きだし、札幌トヨペット岩澤靖氏グループが免許を獲得。競願していた他社合併により「北海道テレビ放送」が設立された経緯を今回の秀作テレビ番組鑑賞会で再認識でした。政商といわれた岩澤さんが株投機の失敗で身を引き朝日新聞系列が救済に乗り出し今日にいたります。

秀作テレビ番組上映会が開催されていた、かでる27へ出掛けて来ました。今回はHTB制作のドキュメンタリードラマ作品が出来上がるまでにはスタッフの情熱に応えて倍賞知恵子さんがリポーターとナレーターに初挑戦され30数年前の当時、話題を呼んだとの事でした。

会社の不祥事という最大の危機に面して日々の様々なニュース情報からヒントをえたヒューマン人間ドラマへ関心を持った私にとっては北海道新聞シナリオ教室の恩師でもある菊池さんのものづくりへの執念に脱帽・感謝のひと時でした。

「赤い靴」 作詞:野口雨情 / 作曲:本居長世

赤い靴(くつ) はいてた 女の子
異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった
横浜の 埠頭(はとば)から 船に乗って異人さんに つれられて 行っちゃった
今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう
赤い靴 見るたび 考える
異人さんに 逢(あ)うたび 考える

実在した赤い靴の女の子の名前は岩崎きみ、明治35年7月15日生まれ。だらしのない父親。母・岩崎かよさんは未婚の母として1人できみちゃんを育て、かねてからの知り合いである鈴木志郎という男性と再婚。当時開拓地として注目を集めていた北海道へきみちゃんが3歳になった頃渡り、開拓農場へ入植、開拓地での生活の厳しさに、きみちゃんを函館の教会で宣教師をしていた歌の「異人さん」米国人、ヒュイット夫妻に養女として託します。
きみちゃんが6歳になって異人さにアメリカへ帰国命令が届き、かよさんの耳にも入ります。かよさんの夫、鈴木志郎さんが、就職先での縁で「野口雨情」と親交深まる中、かよさんの「実は自分には今娘がいて、こんな事情でアメリカへ行った。」という話をもとに「赤い靴はいた女の子」が誕生し、アメリカで幸せに生きているきみちゃんのイメージを抱き、この歌が生まれました。幸せでいるきみちゃんを喜ぶ反面、養女にしてしまったことへの責めの気持ちを噛み締めたドラマに感動しました。不治の病と云われた結核にかかり、病気の療養をさせることを強く望んではみたものの船に乗せてもらえず、やむなく東京麻布にある教会の孤児院に預け、横浜港から帰国の船に乗ったヒュイット夫妻。残されたきみちゃんは結核が進み、孤児院でわずか9歳でこの世を去りました。母親のかよさんは、きみちゃんがアメリカで幸せに暮らしていると信じ、この事実は知らされずに生涯を過ごしたそうです。
刻々と動いている報道番組のデスクワークをしながら構想を練り、ただキー局の番組を垂れ流すことなく自主制作枠を持てという行政指導にそって制作と営業が一致団結して番組を作り上げた歴史の一端に、独り言の頑張るぞ、と思う文責・横田です
遊びのスガイ<横田昌樹>


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